光尊寺の沿革


はじまり

徳川幕府の支配による封建時代より明治政府の近代国家への移行によって北海道あるいは那須のが原等の荒蕪地開拓の大事業が行われた。

北海道開拓は真宗大谷派のご門徒を移民することになった。


成り立ち

那須野が原は那須開墾社によって政府より土地(3千町歩)を借り受けにより明治元勲の協力によってなされた。

すなわち松方・西郷・大山・毛利・小早川・品川・青木等の方々である。しかし一番困難なのは人的資源労働力の確保であった。これも新潟・富山等の北陸門徒力を借りねばなかった。那須野が原開拓の募集の言葉にいわく【一年中太陽が照り極楽のような土地があるから行かないか】極楽のような門徒にとってこれ以上の誘い文句はない。

もう一つ命の大切さを重んじる門徒は間引きをしないために大家族が多い。所詮、次男・三男対策である。年間不順の天候に悩まされ大家族に悩む人たちにとって、またとない条件である。一家をたたんで大八車に、お仏壇を家財道具を積み、赤ちゃんを乗せて那須野が原に入植したものです。

来てみて驚いたことに、
太陽は毎日拝めるけど水がない。
水がなければご飯を炊くことが出来ない。
のどの渇きをいやすことが出来ない。
冬は那須山からの雪混じりの空っ風、折角建てた掘っ建て小屋も吹き飛ばされ、寒さにあえぐ有様。加えて聞法の道場たるお寺がない。亡くなった人があっても葬式が出来ない有様。
その様なとき、明治20年。
7月20日本願寺門跡明如上人が北海道ご巡教のため京都出発。
7月26日、東北線で東京を出発されることになった枢密顧問官・品川弥次郎の請いにより那須野が原開拓事業をご視察されることになった。


転じ

ご一行は学習院生であった。
大谷光瑞様(後の鏡如上人)はじめ島地黙雷・小田佛乗・中山正諦・内藤敬嘆・進藤美香・上原芳之助・山本貫通等であった。
宿泊には那須野が原開拓の基である、那須開墾社烏が森農場にて2泊いただいた。2日目には咲山(現佐久山)正淨寺にて帰敬式をご修行。3日目に烏が森の山にお登りいただき、そこより現在地の方をご視察・開拓者らの厚い要望にて当地に上人自ら私財を投じ、本堂建立経費にと帰敬式の冥加金をご寄付いただき、一宇を建立いたされる事をお決めいただいた。

寺号を本山直属の【那須本願寺】といたす。
開墾社庭前におかれ、松をお手植えいただき一首を付して「しるべの松」と命名される。
      ●とことはに栄える松を庭に植えて
           かわらぬ法のしるべとやせん

明治22年3月20日本山より境内予定地の下見をいたし、4月28日境内松を植える7月17日ご門徒の念願だった本堂建設着工し、11月29日明如上人より大洲鉄然を特派に命じお裏方枝子様居室の関白殿の持佛をご動座いたされ、当寺のご本尊にお迎え致し入佛法要をご修行。留守居役(輪番)に奈良県吉野・本善寺/住職/連枝/六雄澤慶師に兼務にて任命致された。


結び

明治23年7月18日大洲鉄然及び木造等観に特別布教 参詣者400人余あった。
寺号を那須本願寺より【明如山 光尊寺】に呼称変更ご許可。昭和3年本堂屋根トタン葺きに改築工事をご門徒の方々によって施行。
昭和27年11月26日勝如ご門主様より明如上人50回忌法要修行にご代香 使者 北畠教眞 本願寺築地別院輪番を遣される。昭和49年11月には老朽化著しいため本堂庫裏会館・書院建設、同50年に落成。現住職 釋正法は5代目であります。